クロと別れてアパートに戻った明代。奇妙な体験の興奮は、まだ明代を眠らそうとしない。
「夢かもしれないなぁ」そう思うと、今入ったベッドから出てノートPCの電源を入れた。
暇つぶしに作った自分のブログに書いておこうと思ったのだ。
どうせ誰も信じないだろうけど、アクセスもほとんどなく、レスも期待していない日記代わりのブログだ、とにかくこの不思議な出来事を残しておきたいと思った。
クロと話した内容を反芻しながらタイプしていると、あの少し柴犬の血が混ざった精悍な顔を思い出す。
「精悍?犬が?」クロに対する自分の感想に笑った。
そういえば、ボーイフレンドの顔を思い出そうとしても、モヤがかかったようにぼんやりとしか浮かんでこない。しかし、クロの顔は表情まで鮮明に、しかも男前で、ボーイフレンドより「人間らしく」思い出せる。
「あたしは変だ。寝不足のせいだ」ブログを書き上げるとベッドに飛び込み、わずかばかりの睡眠を貪った。
×××
二時間ほどの睡眠をとって、眠気覚ましにシャワー。化粧もそこそこに出勤。
「きょう一日頑張れば明日は日曜だ」昨夜のことは誰に話すこともなく、いつもの単調なデスクワークをこなしていると、午後からは窓の外で風の音が強くなった。
「春の嵐だな。一雨きそうだ」誰かが言ったので外を見ると、低い雲で夕方のように暗い。
頭の中を、ずぶ濡れで街を歩くクロの姿がよぎった。
退社時間にはザーという雨音が聞こえるほどになった。いつものように同僚社員と日曜の予定をおしゃべりすることもなく、てきぱきと机を片付け、タイムカードに刻印して雨の街に出た。
バスを降りると、アパートとは反対方向の公園へ。ぬかるんだ土でパンプスが汚れるのを気にしながら公園の中央で見渡すと、クロはいた。
南端の銀杏の木の下で、雨をしのいでいる。
「やあ、きのうぶりだね」時おり葉にたまった大粒の雨がクロの鼻先に落ちて跳ねる。
「あ。やっぱり夢じゃなかった。ほんとに聴こえる・・・ねえ、いつもここで雨宿りしてるの?」
「いや、平日は繁華街のアーケードに行ったりするけど、土曜は人が多くてね」
「きょうは風も強いし、ここじゃ風邪ひいちゃうよ?よかったら・・」と言って、明代は自分のアパートへ犬を招こうとしてる自分に気づいた。
「気持ちはありがたいけど、俺、犬臭いよ?当たり前だが」
「あたし一人だから大丈夫。話し相手がほしくて。あ、でも大きな声は出さないでね、犬を飼ってると思われたら管理人さんに叱られるからね」
「うん。了解。じゃあ、雨があがるまでお世話になりますか」
「うん。じゃあ、いこ」
リードのない犬に傘をさしてやりながら歩く明代。人が見たらよほどの愛犬家と映っただろう。
明代とクロは、隣人に見つからないように、注意深く部屋に入った。クロは玄関でじっと座っている。
「あ。そのまま上がったら床が濡れちゃうか。待って。タオルもってくる」
クロの足や、濡れそぼった体をタオルで拭いてやる。人間より少し体温が高いのが分かる。息がかかるほどの距離なのに全然嫌悪感がない。それどころか、前脚や胸の筋肉のつき方に逞しさを感じる。
「タオルで体を拭いてもらうなんて初めてだ。なんか照れるよ」
「あはは。あたしも初めてよ。はい、これでいいわ。ソファーでくつろいでてね。着替えてくるから」
上着を脱いで、下着も替えてしまおうとしたとき、クロの視線を感じた。
「ねえ、やっぱりレディーの着替え中は、あっち向いてるべきじゃない?」
「ん?そういうものなの?俺らは年中裸だから、発情期でもない限りメスの裸を見ても何も感じないけどなあ。それに君は人間だし」
「へ〜、何も感じないんだ」クロがまるっきり無関心な表情とトーンでそう言うのを、明代は少しくやしく感じた。それから『じゃあ発情期なら?』と聞こうとしかかったのをやめた。
「あ。名前、まだ聞いてなかったよね?なんていうの?」雨で冷えた乳房に新しいブラをあてながら聞いた。「あたしは明代よ。ア・キ・ヨ」
「俺は、クロだよ」
「じゃあ、クロくん。今夜はあたしの話し相手に付き合いたまえ。晩ごはんもごちそうするから」
そう言いながら、こんなに素直に人(犬)と話せるのは何年ぶりだろう、と明代は思った。
つづく